一、出生数と出生前診断希望者
わが国では、毎年、約100万人から120万人の新生児が誕生しています。平成17年度の出生数は、前年に比べて約5万人減の106万2530人でした。
この約100万人の出生者のうち、約1万人の人が出生前診断を受けています。出生前診断とは、胎盤になる絨毛や、羊水に含まれる胎児の細胞、胎児の血液などを用いて、胎児の染色体や遺伝子の異常を調べる診断方法のことです。医療科学の進歩により、胎児がもつ特性を出生前に知ることができるようになりました。
出生前診断を受けた結果、胎児に先天性異常が発見された場合、懐胎者が人工妊娠中絶を希望する可能性があります。このような人工妊娠中絶を認めるべきでしょうか。
二、現行法下での規制
このような人工妊娠中絶は現行法ではどうなるのでしょうか
刑法212条は、妊娠中の女子が薬物を使い又はその他の方法により堕胎したときは、1年以下の懲役に処すると規定しています(堕胎罪)。また、同法214条は、医師等が女子の嘱託を受け又はその承諾を得て堕胎させたときは3月以上5年以下の懲役に処すると規定しています(業務上堕胎罪)。
これに対して、母体保護法14条1項は、指定医師は次の各号のいずれかに該当する者に対して、本人および配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができると規定しています。
- 妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの
- 暴行もしくは脅迫によって又は抵抗もしくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの
この母体保護法の要件に該当すれば、人工妊娠中絶を行ったとしても、依頼者・指定医師は、堕胎罪・業務上堕胎罪によって処罰されることはありません。
しかしながら、出生前診断に基づく人工妊娠中絶は、母体保護法の要件を満たさないため、現行法下では堕胎罪・業務上堕胎罪が成立し、処罰の対象になる可能性があります。
三、障害者の人権への配慮
出生前診断に基づく人工妊娠中絶を否定的に考える背景には、障害者の人権への配慮が大きくかかわっています。この人工妊娠中絶は、障害をもった胎児の出生を抑制するものですから、障害をもって生まれてきた方々への差別につながるのではないかが懸念されています。ハンディをかかえた障害者に対して、さらに精神的なハンディを課すようなことは、許されるべきではありません。出生前診断に基づく人工妊娠中絶を認めるためには、障害者に対する配慮が十分になされるようにしなければなりません。これとは逆に、出生前診断をしなかった結果あるいは出生前診断を誤った結果、本当なら苦しい人生を生きずに済んだ人生を生かされることになった障害者の権利の侵害という面も考慮する必要があります。そのためには、障害を持つ方々の苦労・不便さ、その関係者の方々の意見を踏まえ、十分な議論がなされる必要があります。
四、海外での制度
イギリスでは、人工妊娠中絶法により、出生前診断に基づく人工妊娠中絶が認められています。スウェーデンでは、妊娠18週目までは無条件、または、一定の条件の下で人工妊娠中絶が認められています。18週目を超える場合でも,胎児に異常があった場合には、法律福祉庁の許可を得て、中絶することが認められています。フランスも、スウェーデンと同様の規定をおき、人工妊娠中絶を認めています。
しかし、ドイツは、障害者差別に配慮する理由から、1994年、出生前診断に基づく人工妊娠中絶を認める条項(胎児条項)を廃止しました。
このように、諸外国においても、すべての国でいわゆる胎児条項が設けられているとはいえない状況にありま
。五、出生するか否かを決定する権限を認めるべきか
- 出生前診断に基づく人工妊娠中絶を認めることは、懐胎者・配偶者に胎児を出生するかどうかの権限を与えることを意味します。懐胎者・配偶者は、障害をもつ子を育てていく必要があります。現在の日本は、障害者をもつ家庭を援助する体制が整えられているとはいえません。障害者をもつ親は、多くの負担とリスクを背負うことになってしまいます。また、両親・親類が亡くなり、障害者が1人で生きていかなければならない状況に置かれたとき、サポート体制が充実していない現状では、障害者もかなりのリスクを背負わざるをえないことになります。現在のわが国の障害者に対するサポート体制が発展しない限り、懐胎者・配偶者に胎児を出生するか否かの権限を与えることもやむを得ないのではないかという意見が存在します。
このように懐胎者・配偶者に権限を与え、出生前診断に基づく人工妊娠中絶を適法な行為とするためには、刑法35条の正当行為に該当すると解釈するか、母体保護法14条1項の要件を緩和する、または、堕胎罪・業務上堕胎罪の規定を削除するという法改正が必要となります。 - 医学が発達したとはいえ、出生前診断によって、障害の有無を正確に判断できるかどうかには疑問があります。出生前診断において誤診断がなされ、それによって中絶が行われれば、取り返しのつかない事態が生じてしまいます。また、正確な診断ができない以上、疑わしい(障害の有無がはっきりわからない)場合に安易な中絶の道が選択されるのではないかが懸念されます。さらに、障害をもった胎児といえども、人間と同じ生命体であることには変わりありません。生きるか死ぬかを決定する自由・権利は、懐胎者・配偶者に与えられるべきではなく、胎児自身にのみ与えられるものであると考えることもできます。この考えのもとでは懐胎者・配偶者に決定権限を与えることは、障害者の生きる自由・権利を奪うことになり、人道的観点から認められるべきではないということになります。さらに、今後わが国で出生前診断が広く応用された場合、それにより、何らかの疾病遺伝子を有する人間すべての淘汰が指向され、胎児の人為的選別がなされかねない、という指摘もあります。
さて非常に重い問題ですが、あなたはどう考えますか。
アンケートにお答えいただき、あなたのご意見をきかせて下さい。
出生前診断に基づく人工妊娠中絶は認められるべきか
- 認めるべき
- 認めるべきでない
参考資料
- 一について
- 平成17年度人口動態統計(確定数)の概況
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/kakutei05/dl/data.pdf
出生前診断-最近の動向
http://www.aiiku.or.jp/aiiku/jigyo/contents/kaisetsu/ks0408.htm#tbl3 - 四について
- <胎児条項>雑感
http://www.arsvi.com/0w/tm01/zakkan.htm
出生前診断・選択的中絶
http://www.arsvi.com/0g/p012.htm
所有と中絶
http://philolaw.hp.infoseek.co.jp/resume/2003/20030519.html