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奇妙な依頼 ― 殺人罪と嘱託殺人罪 第一回

奇妙な依頼 ― 殺人罪と嘱託殺人罪  第一回

 皆さんは、外形的には犯罪に当たる行為が、被害者の依頼や承諾によって犯罪でなくなったり、あるいは刑が軽くなったりすることをご存知だろうか。
 例えば、医師が手術する行為は、外形的には、傷害罪が罪としている行為に当たる。メスで皮膚を切るという行為は、傷害罪刑法204条・15年以下の懲役又50万円以下の罰金)の実行行為そのものだ。しかし、相手、すなわち患者の承諾があれば、傷害行為は医療行為となり、犯罪として処罰されることはなくなる。
 男がある男に、「自分を殺してくれ」と頼まれた。このとき、相手が真摯に依頼したのであれば、男の罪は嘱託殺人罪(人を、その者に頼まれて殺すこと。刑法202条後段)となり、6月以上7年以下の懲役又は禁錮の範囲でしか罰せられない。
 しかし、もし裁判で、「相手の依頼は存在しなかった」と認定されたらどうか。
男は殺人犯人として、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役という、嘱託殺人罪とは比較にならない重い刑事責任を負うことになる。
 この話は、嘱託殺人か殺人かが争われた事件である。


関東地方がまもなく梅雨入りするという6月の午後、山岸四郎は渋谷駅に降り立った。
階段を降りる背中を、同乗の客が次々と追い越していく。
― 数駅電車に乗っただけなのに、もう疲れている。
こんなことで、満足に相手が務まるのだろうか。Kの不機嫌な顔を思い出し、四郎は暗い気持ちになった。待ち合わせの1時まで、あと30分もない。Kはいつものホテルで、もうシャワーさえ浴びているかもしれない。
だが、今日こそ、一日延ばしにしていたことをはっきり言わなくてはならない。関係を終わりにしたい。もう会いたくない、と。
しかし、それまでは相手の機嫌を取り結んでおかなければならない。別れるつもりの相手と気を合わせるのがこんなに苦痛だとは、思ってもみなかった。
四郎は無意識に、上着の胸辺りを押さえた。内ポケットには3日前にホテルで渡されたソムリエナイフが入っている。その種のものとしては大ぶりで、刃渡り10センチほどの別刃が付いている。イタリアの職人に作らせた特注品ということだった。
「ウォッシュタイプのチーズが、手を汚さずに削ぎ切りできるよ」と、Kは別刃を繰り出して、自慢げに説明したものだ。
このナイフを―本来の用法どおりに使うなら―何の問題もない。しかし、それに続いたKの言葉は、四郎を戦慄させた。

「これで下腹を刺してくれないかな。」
― え?・・・
思わず相手の顔を見返した。
― 何だって? 冗談だろ?
「下腹を刺すんだよ。― 方法は決めてあるんだ。ちゃんと説明するから」
― ちょっと待ってくれよ。それって、殺人じゃないか。
「礼はする。500万出すよ。500万ならいいだろう」

500万円は大金だが、Kにとっては何ということもない金だ。しかし、嘱託殺人に500万円出すと言ったことで、四郎は相手が本気であることを悟った。
精巧なソムリエナイフは、今や凶器の禍々しさを放っている。内ポケットに入れているのに耐えられず、四郎は足を止め、セカンドバッグに移しかえた。このバッグも、Kから贈られたものだ。
― どうしてこんなことになったんだろう。
道玄坂小路方向に歩みながら、嗚咽が込み上げてきた。
小雨が降りはじめていた。

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