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虐待の果てに ― ある幼児の死 第一回

第1回

倫子はキッチンの小さな窓から外を見て、日が翳ってきたことに気づいた。
  その日は11月初めとも思えない暖かな日和だったが、秋の日差しは瞬く間に薄れ、肩の辺りがうそ寒い。倫子はカーディガンを取ろうとして、リビングに入った。
  リビングの外には、長さ3メートルほどの狭いベランダがある。ベランダに面したサッシ窓には、カーテンが引かれている。
  倫子は、リビング中央の食卓に近づき、カーテンに目をやった。最後にこのカーテンを開けたのは2日前だ。
  カーテン越しにベランダの様子を窺ってみた。静かだった。
  さらに近寄ると、少しだけカーテンを開けてみた。外は薄暗く、明るいリビングからは何も見えなかった。
  サッシ窓に手を掛けようとしたとき、玄関に人の気配がした。武が帰ってきたのだ。倫子は慌ててカーテンを元通りにした。
  振り向くと、武はもうリビングに入ってきていた。大柄な男で、180センチはある。髪はスキンヘッドに剃りあげていた。

 「早かったやない」

 倫子は無理に笑顔を作った。
  武は手に提げたコンビニのビニール袋を食卓に投げ、

 「メシにせいや」

 「それ、何やの?」

 「何でもええ。ハラ減っとんのや。早う作れ」

 武は不愉快そうに言うと、バスルームに消えた。ベランダに近づいたのを見られたのかもしれない。倫子は思わず身が竦んだ。

 武の気性が激しいことは、知り合ったころから気がつかないではなかった。倫子の前夫は、性格は優しかったが、優柔不断なところがあった。倫子はその反動で、武の自己中心的で狷介な性格を男らしさと思い違ったのかもしれない。
  キッチンに戻り、武の夕食を作り始めた。肉と野菜を炒め、冷奴を添える。酢の物を和える。しかし、これでは足りない。武は「何でもええ」と言ったが、それは言葉だけのことなのだ。武はよく食べ、しかも味つけにうるさい。
  武が、裸体にバスタオルを巻いただけの格好で戻ってきた。腹は出ているが、肩には筋肉が盛り上がっている。

 「まだできんのか!」

 「・・・」

 「何でそないにトロイんや? 一日家におって、われは何やっとんのや?」

 倫子は唇を噛んだ。ここで言い返せば、おきまりの修羅場になるだろう。
  いったん怒ると、武は抑制がきかない。食卓をひっくり返し、皿小鉢を叩き割る。倫子はトイレに逃げ込むのだが、いつもドアを蹴破って引きずり出された。

 「ごめん。もうすぐできるし」

 倫子は皿を並べ、冷蔵庫からビールを出した。武は酒もよく飲んだ。家計のことを考えると発泡酒か第三のビールにしたいのだが、承知しない。
  時計を見ると、もう7時を過ぎている。急がなければ遅刻する。倫子が勤めるスナックは8時に開店する。遅刻は15分単位で計算され、残りの45分は時給をもらえなくなるのだ。
  慌ててバスルームに行き、化粧を始めた。右頬の青あざの上には、特にファンデーションを厚く塗りこんだ。

(続く)

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