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虐待の果てに ― ある幼児の死 第二回

第2回

 倫子が武と知り合ったのは、平成15年11月ころである。

 武は倫子がアルバイトをしているスナックの客であった。月に1度ほどしか来なかったが、来ればいつも派手な飲み方をした。賑やかにカラオケを歌い、席に着いたホステスにも飲ませ、歌わせる。自営で不動産業をしているということだった。
  半年ほど前、倫子は離婚して、1歳半になる長女を連れて実家に戻っていた。子どもを育てながらホステス勤めをする女は多い。しかし子どもがいることは、普通は客に話さない。  倫子も離婚を話題にすることはあったが、子どものことは隠していた。

 倫子の前夫はサラリーマンだった。小さな商事会社に勤めていたが、業績の悪化からリストラされ、タクシーの運転手となった。
  性格のおとなしい夫は、運転に不慣れなこともあって、いつも客の奪い合いに負けた。休みを返上して働いても、収入は前職の3分の2ほどにしかならなかった。夫婦は2人目の子を望んだが、夫の収入では生活するのが精一杯である。そこで、子どもができるまでの間、倫子がアルバイトをすることになった。
  当時、長女はまだ1歳になったばかりだったから、長い時間一人にしておくことはできない。そのため、夫が帰宅する夕方以降にできるアルバイトを探した。はじめはカラオケボックスに勤めたが、同僚の主婦がスナックのホステスになって実入りが良くなったことを聞き、心が動いた。
  スナックに勤めることについて、当然、夫はいい顔をしなかった。しかし、強くは反対しかねた。カラオケボックスの店員は立ち仕事で、夜は目が回るほど忙しい。妻が疲労しているのは分かったし、その割に時給は低かったから、それでも続けろというのは気が引けた。
  スナックの時給はカラオケボックスの倍以上であるという。結局、店が引けた後はすぐ帰ること、客と個人的な付き合いをしないことを条件に、同意するしかなかった。
  夫に十分な収入があったなら、誰が好き好んで酒客の相手をするだろうか。アルバイトを始めたのは、夫の収入が少ないからである。スナックに移ったのも、収入を増やして家計を助けたいからである。倫子はそう考えていた。

 しかし結局、倫子は流された。専業主婦の経験しかない女にとって、ホステスの仕事は刺激が強すぎた。閉店後はすぐ帰るという約束だったが、午前2、3時になることが多くなった。常連客やママの誘いを断ることができないのである。倫子は愚かな女ではなかったが、節度を守りながらしたたかに付き合いを続けられるほど賢くはなかった。
  もともと炊事が得意ではなかったが、ほとんど料理をしなくなった。仕事のため夫は朝6時に家を出るが、倫子は化粧も落とさず、酔って眠りこけている。これでは朝食も弁当も用意できるわけはなかった。娘が泣くときだけは起きて面倒を見ていたが、それも怠るようになった。倫子が働くようになって、収入は増えた。しかし、夫婦の穏やかな生活はまったく失われてしまった。
  夫が倫子との離婚を決意したのは、頑迷な妻に失望したからである。家事を切り盛りするのは妻にしかできない大切な仕事なのだから、それに専念してほしい。夫はそう言って説得した。

 しかし倫子は、不和の原因は自分にはない、と主張して譲らない。私は一生懸命働いている、どうして自分だけが仕事を辞めなければならないのか、納得がいかない、と言い返すようになった。結婚以来、倫子の従順さ、穏やかさを愛しんでいた夫は、その変わりように耐えられなくなった。
  離婚した倫子は、1歳半の娘を連れて実家に帰った。

(続く)

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