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父と娘の物語 ― ある親殺し 第二回

2 娘・中村 結衣の供述

 小さいときの記憶は、かすかに残っています。古いアパートのような建物の2階にある一室です。4畳半くらいの居間に、おまけのように狭い台所がついていました。そこが私の家だったと思います。
下町の一角でした。小商店やしもた屋がくすんだように低い軒を並べ、夕暮れになるとタマネギとじゃがいもの煮物を作る匂いが漂ってくる・・・そんな貧しい風景です。街の其処此処に、終戦後の埃臭さと倦怠感が、まだ色濃く残っていました。
外で遊んだ記憶はあまりありません。小学校に行っても、一度帰ったら、もう外へは出ませんでした。父は私が外に遊びに行くのを嫌いました。幼稚園に通ったことはありません。戦争が終わって家族が再会を果たし、世間にはおめでたの話が多く聞かれました。子どもが多かった時代でしたけれど、私には遊び友達というのもありませんでした。
母のことは、全く覚えていません。ただ、古びた箪笥の中に、女物らしい浴衣を見たことがあります。うす紫色に優しい花柄が染めてありました。私が珍しそうに見ていたら、父が取り上げて捨ててしまいました。死んだのか別れたのかも知りません。

暗い部屋の中には父と私がいて、卓袱台の上で折り紙をしているんです。― 何を折っていたかはよく思い出せません。折り紙は、すぐに色落ちして赤や黄色が手に着くような、粗末なものでした。でも、あの頃はそんなものでも貴重品だったんです。同じ紙を、しわを広げて何度も使いました。
私は不器用なので、いつもちゃんと折れなくて、角がはみ出したり、寸法が足りなくなったりしてしまいます。それが分かると、父は真っ赤になって怒り出します。それから折檻を受けます。

どんな折檻を受けたか・・・ですか? 申し訳ありませんが、よく思い出せません。いえ、父を庇っているわけではありません。弁護士さんからも、「お父さんがしたことをありのままに話した方が、あなたに有利になる」と言われましたが。
父の大きな身体が、私に向かってくる・・・その影のような姿は分かるんですが、その後どんなことをされたかは、まったく消えてしまっているんです。勾留中、支援団体の人が差し入れてくださった本に書いてあったのですが、人間は、辛い記憶から自分を守るために、無意識のうちに頭から消してしまうことがあるそうですね? ひょっとすると、私もそうなのかもしれません。
どうして折檻を受けたことが分かるか、ですか? それは、近所の小母さんたちに、「ゆうちゃん、そのケガどうしたね?」と幾度となく聞かれた記憶があるからです。「こんな小さい子をねぇ」と言って、涙ぐまれたこともあったように思います。
家の前の路地に近所の人たちが立って、私の家を窺うように指差していたこともあります。父と私のことが噂になっているのは、本能的に分かりました。父は無愛想で、近所付き合いをまったくしませんでしたから、近所の人たちもそれ以上のことはできなかったんだと思います。
中学校の先生が、一度家庭訪問に来られましたが、父は居留守を使って会いませんでした。それから先生が来られることはありませんでした。
高校には何とか進学しました。でも、顔にできた痣や腫れが恥ずかしくて、次第に休みがちになりました。

父は左官工でした。独立することはできず、小さな工務店に雇われていました。一つの現場につき幾らで、工賃をもらっていたと思います。
父の生活は単調でした。朝早く、塩をつけただけの握り飯を持って出かけ、くたびれた様子で夜半に帰ってきました。月に1,2度は、明け方近くまで帰ってきませんでした。女の人のいるところに通っていたのかもしれません。でも、いつもは外で飲むことはなく、焼酎を買ってきて、私に肴を作らせて飲んでいました。天気が悪くて現場に出られないときは、1週間でも飲み続けていました。
雇われ先は頻繁に変わりました。どこも長続きしなかったようです。理由は分かりませんが、父はいつも鬱屈を抱えているような陰気さがありましたから、威勢のいい現場の人たちと気が合わなかったのかもしれません。親方に従わなかったのかもしれません。
それでも仕事にありつけたのは、敗戦から10年ほどたって、世の中が次第に活気を取り戻してきたおかげだと思います。煤にまみれた戦争前の建物をこわして新築するという話が出てきました。子どもが生まれて手狭になった家を増築する人も増えてきました。

父が本当に酷くなったのは、私が中学生になった頃でした。父は好景気のおこぼれでようやく仕事にありついていたのですが、皮肉なことに、父は、自分を生かしてくれているはずの世間についていけなくなりました。眼にするもの耳にするもの、ささやかな父の自尊心を傷つけることばかりだったと思います。「サラリーマン」と呼ばれる人たちがスマートな背広を着て会社に通いはじめ、小商人や職人は何となく時代遅れにみえる、という世の中になってきました。
無口な性格が荒んできました。父は左官の修行時代に梯子から転落したことがあり、右足をちょっと痛めていたのですが、中年に至ってその古傷が痛み出しました。仕事もままならなくなると、私に当り散らし、暴力をふるいました。私は日々を耐えるので精一杯でした。
ある日、生理が来なくなったことに気がつきました。私は父の子を身ごもっていました。

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