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父と娘の物語 ― ある親殺し 第三回

 父にそれを告げた日のことは、今でも忘れられません。恐ろしさに身体が震えるようでした。父が私の妊娠を喜ぶはずがなかったし、赤ちゃんをどうするつもりなのかも心配でした。

 父はしばらく黙っていましたが、「いつ分かったのや。」と聞きました。私はこの1週間ばかり、種々の心配から父に話すことをためらっていましたので、実は1週間前に気がついたと言いました。すると父は、「何で早う言わん!」と怒鳴りざま、私を殴りつけました。平蜘蛛のようになって謝るまで、父は私を殴り続けました。そして、「分かった、勝手にせい。産みたかったら産め!」と言い捨て、外に飛び出ると、2,3日戻ってきませんでした。

 どうして誰かに相談しなかったのかと、検事さんにも弁護士さんにも聞かれました。でも、私にどうすることができたでしょう。私はずっと、父と二人きりで生きてきたのです。友だちもいません。相談できる親戚もありません。現在のような支援団体もありません。警察に言うことは、なおさらできるはずがありませんでした。交番に行って、「父が私を犯しました。子どもができました。」と言うのでしょうか。それでどうなるというのでしょう。

 中絶するには時期があることは知っていました。妊娠何週にかかっているのかも定かではありませんでしたが、堕すなら早くしたほうがいいことは分かっていました。でも、どの医者に行ったらいいのか分からず、中絶費用もありません。父は私に毎日の食費だけを渡していましたが、そのわずかなお金は一日ももちません。もっとも、父にも余分なお金はなかったと思います。その頃になると、月のうち半分は仕事にあぶれていました。
 3月ほどがあっという間に過ぎました。さかんにこみ上げていたツワリがおさまってくると、もう後へは引き返せないのだと観念しました。ここまできたら、無事に赤ちゃんを産むしかないのです。でも、生活はいよいよ逼迫し、毎日の食事にも事欠くようになりました。

 収入を得るために、私は内職を始めました。反物につける紙縒りの値札を作る仕事です。今でもそうかもしれませんが、反物を傷つけないように、値札は紙製のものが使われていました。小さな羽子板のような形の和紙の端を、紙縒りにして尖らせるのです。お米代にもなりませんでしたが、何もしないよりはましだと思ってやりました。外へ働きに出ることは父が許してくれませんでしたから、内職くらいしかできなかったのです。

 よく夜なべをしました。4畳半では父が寝ていましたから、台所の板の間に座布団を敷き、ベニヤ板の壁に寄りかかって、一晩中、紙縒りを作りました。冷たい壁で身体を冷やしたのがいけなかったのかもしれません・・・街に歳末大売出しのノボリが上がるようになった年の瀬のある夜、いつものように壁に寄りかかってうたた寝をしていたとき、お腹に激痛が走りました。私は本能的にドアを開けてアパートの廊下へ出、階段を転がるように降りたところで意識を失くしました。
私は1階に住む管理人さんの通報で病院に運ばれ、父と私の初めての子どもを出産しました。生きて産まれたのが不思議なほどの未熟児でした。

 父は一度顔を出したきり、二度と病院には来ませんでした。先生や看護婦さんも困られたのでしょう、意識を戻した次の日から、様々なことを尋ねられました。子どもの父の名前、私の親の名前、入院費用は誰が払うのか(私は未成年でした)、退院後の子育て・・・答えられたのは「私の親である父の名前」だけで、その他のことには首を振るしかありません。
 私の様子を見て、病院ではよほどの事情があるようだと推察したらしく、それ以上聞き質されることはありませんでした。ただ、アパートの管理人さんには、私たちの暮らし向きについて問い合わせがあったということです。結局、最低限の入院費用は、市の福祉課のようなところが負担してくださり、私たちが請求を受けることはありませんでした。しかし、実はそれがいけなかったのです。
 退院した私は、赤ちゃんを抱えて部屋に戻りました。未熟児でしたが、入院していることはできませんでした。父は相変わらず仕事にあぶれて部屋におりました。恐る恐るドアを開けても、何も言いません。私の身体を労わるでもなく、赤ちゃんの様子を見るでもありません。父の態度は入院前と何も変わりませんでした。

 そんな父を見て、私は真剣に今後の生活について考えずにはいられませんでした。とりあえず働きに出なくてはならない、そうでないと3人共倒れです。私は父に、身体が良くなったら仕事をしたいと言いました。
 しかし、それを聞いて父は逆上しました。「そんなに金がほしいのか、俺の稼ぎがそんなに不足か、それなら身体を売れ」と叫んで私を押し倒し、性交しようとします。悪癖がまた始まったのです。私は狭い部屋中を赤ちゃんを抱いて逃げまどいました。まるで地獄絵図でした。

 あの頃の自分を思うと不思議になります。よくあのような生活に耐えられたものだと・・・でも、あんな男でも、真実、私の父なのです。父を置いて逃げることはできません。また、赤ちゃんを抱えて他の土地に行くことも不可能でした。

 それから6年のうちに、私は父の子をさらに4人出産しました。入院費用を払わなくてすんだことが、父に世間に依存する旨みを覚えさせ、開き直らせ、さらに図太くしてしまったのです。
 生まれた子どもは、父と私の子としては届けられません。戸籍上は私の私生児となっています。その頃には、父にはほとんど仕事がなくなっていました。私は再び内職を始め、後には生活保護も受給しました。それでも、生活はいよいよ立ちいかなくなりました。

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