第5回 治療
喜八は救急車で市民病院に運ばれた。
長年喜八を診てきた担当医は、喜八が酒を飲んでいたことを知って憤慨した。
「どうして飲ませたんですか」
伸治は一言もなかった。
「最近、薬を取りに来ないと思ったら・・・血圧が高い人に、急激に血管が膨張するようなことは禁物なんだ。あれほど注意しておいたのに」
まさか、「あなたに治せない高血圧が、新興宗教で完治すると聞いて喜んだのです」とは言えない。
「・・・付き合いが続いて断れなかったんです」
「仕方がない。だけどね、倒れたときに頭を打っているから、脳内出血している可能性がある。血管も弱っているしね。出血の場所によっては、意識障害が起こるかもしれない。いずれにせよ、長丁場になるよ。直ぐ入院の手続きをしてください。」
伸治は診察室を出た。
父の容体も心配だったが、請け負った工事をどうすればいいのか。職人の手配、材料の発注・・・自分はまだ何も分からない。しかし、工期は厳守しなければならない。相手によっては、損害賠償を請求されることもあるのだ。
帰宅した伸治は、番頭格の杉原という職人と話し合った。杉原は、喜八が開業した頃から勤め上げた古い職人である。伸治が伏して頼むと、力になることを約束した。
「できたことは仕方がない、これからどうするか、考えねばね」
二人は一晩中相談したが、喜八の指示がなくては決定できないことが多すぎる。やはり、工期は延長してもらうほかないことが分かった。伸治は店を杉原に任せ、着替えや身の回りのものを用意し、病院にとって返した
病院では、担当医が待ちかまえていた。
「さっきCTを撮ったんですが、やはり内出血していました。脳の左視床部に長径約4センチ、短径約3センチの血腫ができて、出血が脳室内に流れ込んでいます」
「・・・」
「意識障害も起きています。お父さんは、御自分では何もできない状態だと思ってください。生命に危険はありませんが、点滴で栄養を補給しなければならないし、痰も取ってあげなければなりません」
「先生、実は大きな仕事が入っているんです。父の指示がないと、何も進めることができません。いつごろなら、意識が回復するでしょうか」
「何とも言えませんが・・・意識が戻っても、仕事の決定ができるようになるとは限りませんよ。後遺障害が残るかもしれません。
「そちらの仕事のことは分かりませんが、お施主さんには安請け合いしないほうがいいと思いますね。とにかく、意識が戻るまでは絶対安静です」
伸治は、この仕事を手放すことだけはしたくなかった。そうすれば職人たちに見限られてしまうだろう。仕事の無い中、職人をなだめて繋いでおけたのは父だからできたことだ。経験のない自分にそんな芸当はできない。
伸治は小男に連絡を取り、この事態を説明することにした。
小男は、駅前のビジネスホテルに宿を取っていた。伸治は1Fの喫茶店に出向き、事情を説明した。
「・・・それで、経験不足ではありますが、私が一所懸命やらせていただきます。ただ、正直なところ、父しか分からないこともございまして、多少の時間をいただきたいのです」
「どれほどお待ちすればいいのでしょう」
伸治は答えに詰まった。
「あなたは要らぬ心配をなさっておられる。先日も申し上げたでしょう、父上のご病気は治ります」
「医者は絶対安静で、後遺症が残るかもしれないといっているんです」
小男は甲高い笑い声をあげた。
「教祖様を信じない、あなたのその態度が、全ての解決を遅らせているのです。恥じよ!不信心の者に、神聖な工事を任せることはできません」
「ちょ、ちょっと待ってください。教祖様を信じないわけではありません。あぁ・・私は一体、どうすればいいのですか?」
「退院手続きを取ることです」
「父は絶対安静で、点滴の管が付いたりしています。あれをはずしたら、命に危険が」
「早々に、このホテルにお連れください。教祖様が、穢れた病院に出向かれることはありません」
伸治は医師と「水光の会」の間で懊悩した。
しかし、医師の長年にわたる投薬が功を奏しなかったように思えたこと、小男に背いて治療を受けなければ工事を失うと思えたこと、また、教祖の治療が効果のないものとは思えなかったことから、退院手続きをとった。
医師にはなすすべもなかった。任意に退院するという患者に、病院に留まるよう命じる権限はないのである。
伸治は、直ちにホテルに喜八を運び、ベッドに寝かせた。そして、教祖の治療を受けることになった。
教祖は喜八を観察したが、正直なところ、これほど重篤な症状だとは思っていなかった。また、このような患者を治した経験もなかったのである。彼が治療してきたのは、せいぜいが、腰の痛みや腕のしびれ程度の軽症の信者だった。
この状態では、点滴装置を外して一晩過ごせば、ひょっとすると死んでしまうかもしれないと思った。
教祖は、小男を別室に呼んだ。
「おい、ありゃ危ないんじゃないのか」
「はぁ、まぁ。でも、お布施も結構、払いよりますしね」
「・・・放っておけば、そのまま死ぬだろう。ちょっとだけビームをやっとこうか」
「そうなさいますか」
教祖は病室に戻り、喜八の頭部に向けて手をかざし、「ビーム治療」と称する治療を行った。それ以外には何もせず、ベッドに放置した。
明け方、喜八は脱水症状に伴い、粘稠(ねんちゅう)化したたんが気道を閉そくして窒息死した。