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何もしないことが殺人罪になる!? - 不作為の罪 第四回

第4回 契約と入信

 喜八の経営する山崎工務店と、新興宗教「水光の会」は、会の・・市支部所属の宗教施設の建設工事請負契約を結んだ。

 支部長である小男の言葉に反して、工事はかなり大規模なものになりそうだった。
 内装仕様については、「建物の骨組みができた後、内覧会を開いて信者の希望を取り入れたうえ決定したい」という会側の意向を尊重し、総工費は未確定である。だが、安く見積もっても5億円は下らないと思われた。  請負代金の支払い方法は、設計図の完成時に4分の1、棟上げ時に4分の1、建物の引渡し時に2分の1と決まった。設計図完成時におよそ1億円以上が支払われることになる。これで店を潰さなくてすむ。このような幸運があるだろうか。喜八は嬉しさに躍り出したい気持ちだった。
 息子の伸治もはじめは心配気であったが、契約の段取りが支障なく進むのを見て、ようやく安堵の表情をあらわすようになった。父の仕事を嫌い、他の仕事についていたが、最近の経営難を見てようやく仕事を手伝う気になったのである。
 伸治は、店の経営が傾いた一因は自分にあるような気がしていたから、これからは自分が手足となって親父に楽をさせてやらなければならない、そのためには水光の会とうまくやって行かなければならないと思った。

 契約書の署名は、当地で一番の懐石料理店で行われた。費用は喜八が負担した。新しい客と縁ができたことへ、心ばかりの礼のつもりである。
 この席には、水光の会の教祖自らが出席した。教祖は税理士を伴って、料理屋の玄関にハイヤーで乗りつけた。60半ばの大男で、顔は厳つく、重みのある独特の風貌をしている。銀が交じった白髪で、いかにも教祖の要職にあるものらしく思われた。
契約書への署名が終わり、ビールで乾杯した。教祖は、契約書に署名するときも一切口をきかず、支部長の小男がその傍らで何くれとなく世話を焼いた。彼は相変わらず能弁であった。
税理士も終始口をきかなかったが、それは、経理だけが自分の責務であるという、分を弁えた態度のように見えた。伸治は契約の席に出たのは初めてで、緊張して末席に畏まっていた。
 料理は美味しく、会話も和やかに進み、喜八は満足だった。しかし、一杯目のビールを干したのに、小男が注ごうとしたとき、医者の注意を思い出した。

 

「申し訳ありませんが、これ以上は遠慮しておきます。残念ですが」

「おや、どうしてです?」

「実は、医者に止められていましてな。血圧が高いので」

小男は、また白い手をひらひらさせた。

「それはそれは・・・。しかし、何も心配されることはない。教祖の治療を受けられるとよいのです」

喜八は笑って、
「それは最前も伺いましたが。いや、医者には、血圧とは一生の付き合いじゃといわれておりますのでな。この歳になると、これ以上悪くしないことしかできないそうで」

「ははは、医者は皆、そういうことを言う。では伺って見ましょうか。― 教祖様、いかがでございましょう

小男は初めて教祖に話しかけた。

「教祖様、お見立てはいかがでしょう」

教祖は重々しく口を開いた。

「水と光が治せぬことは、世に何もない」太く、よく通る声である。

「ほら御覧なさい。教祖様がおっしゃるからには、治ったも同然です。昨今の医者は、製薬会社の手先かとも思われますな。薬ばかり飲ませて、自分は何もせん」

喜八は思わず頷いた。経営難からくるストレスのため、血圧は前より高くなっていたが、治療方法は変わらず、飲む薬の種類が増えただけなのだ。

「治りましょうか」

「必ず治ります。以前もお話しましたとおり、天から授かる水と光が、我々の罪障を洗い流してくれるのです。高血圧は、一口に言えば、血管の不浄が原因ですから。
 ぜひ我が会に入信され、教祖様直々の治療を受けられるとよい」

伸治が疑問を口にした。

「どのような治療をされるのですか? ・・いえいえ、お疑いするわけではありませんが、父が健康になってくれるなら、これ以上の安心はありませんので」

「ご懸念は御もっともでございます。しかし、教祖様は、健康に不可欠である生体エネルギーを、直接患部に吹き込むという御業を持っておられます。具体的には、御手を患部にかざして、光すなわち生体エネルギーを注入します。
現に、何千人という信者が、教祖様の御業によって救われております。税理士の母御も、難病から見事に回復されました」

「すごいですね」

伸治は税理士を見た。税理士は黙したままである。

「ただ、治療を受ける前に、先んじて入信されることが必要です。教祖様の御業を受け入れる準備ができていないと、治療の効果が現れないのです」

喜八も驚いて和した。

「いや、高血圧が治るなら、本当に嬉しいのですが。若い頃は、仕事を終えて一杯やるのが何よりの楽しみじゃった。しかしこれでは、辛抱するしかございませんでな。
身体が治って酒が飲めるようになるのなら、喜んで入信いたしますよ」

「ご安心ください。教祖様とご縁を結ばれたからには、もう治ったも同然です。―入会金やお布施については、後ほど税理士がご説明いたします。
さあ、安心めされてぐっと干してください」

喜八はわずかに逡巡した ― しかし、新しい契約と入信が、彼を舞い上がらせていた。
喜八が倒れたのは、それからしばらく後のことである。教祖が患部に光を当てるという「ビーム治療」を受けるようになって、喜八は再び晩酌をはじめた。ある晩、ほろ酔いで便所に立った喜八は、倒れてタイルの床に頭を打ちつけた。
伸治が父に気がついた時には、もう夜が明けていた。

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