第一回 病院へ
2月初旬のある朝、野木地あつ子(64歳・専業主婦)はJR線S駅に降りた。
S駅は、中部地方の大都市O市のベッドタウン・S市の中心部にある。そのため、朝夕はO市への通勤客でひどく混雑する。
ホームに降りたあつ子は時計を見た。午前10時を15分ほど回っている。普段より15分遅れている。しかし、夫が入院する病院へは、さらにバスに乗り換えなければならない。
本来ならば、病院の朝食時間である8時には着いていたい。しかし、そうするためにはあと3時間早く家を出て、通勤ラッシュに揉まれなければならなかった。自宅最寄りのN駅からK駅までは各駅停車で50分、準急でも40分かかる。N駅は小さな駅で、急行は止まらないのである。
ホームから駅中央口への連絡階段を下りた。10時を過ぎた通路に人は疎らだった。自分の足音だけが大きく響く。その音は、あつ子の耳に、遅れてきた者を密かに咎めているようにも聞こえた。
夫が入院した当初は、早起きもラッシュも苦にならなかった。気が張っていたせいだろうか。しかし今は、倦怠にも似た疲れを感じるばかりであった。
すぐ終わるように思えた病院通いが始まって、いつのまにか7年になった。あつ子は疲れ果てていた。
駅中央口を出て、バスのロータリーに向かう。
―麻美がちょっとでも手伝ってくれたら、それなりに楽なのだけど・・・。
バスは出発したばかりらしい。病院行きのバス停には誰もいなかった。次のバスが来るまでの間の10分ほどは、北風の中で立っていなければならない。昨日まで春を思わせるように暖かかだった日和は、三寒四温のたとえどおり、また冬の表情に返っていた。
― ついてない・・・。
あつ子は溜息をついて、北風で乱れる髪を押さえた。
(続く)