第10回 判決まで
あつ子と麻美は殺人未遂罪の現行犯人として逮捕された。発覚したのは、あつ子がトイレに行ったことが、巡回の看護士から担当医に連絡されたためである。
最近のあつ子の顔色が悪いことは、看護士の間で噂になっていた。もちろん、それは看病疲れのためと考えられていた。だが、万一倒れたりすることのないよう注意する旨、看護ステーション内で申し送りがなされていたのである。あつ子らにとっては、病院の親切が裏目に出た形になった。
両名はK地方検察庁に送検された。
貞一郎は一命を取り留めた。注入された40CCの空気は、幸運にも肺動脈本管に停留せず、肺に吸収されたのである。しかし、もし仮に50CC以上が注入されていたら、生命に具体的な危険が及んだ可能性が強い、との鑑識結果が報告された。
検察は、殺意をもって40CCの空気を静脈に注射する行為は、生命という殺人罪の保護法益を侵害する現実的危険性のある行為である。したがって、殺人未遂罪が成立するとして、野木地母娘を起訴。
これに対し、弁護人は、50CC以上注入しなければ医学的に生命に対する危険がないのであるから、40CCの注入行為は殺人罪の実行行為に当たらない。つまり、40CCの注入では、そもそも人を殺害することはできないものとして、不能犯を主張した。これによれば、被告人らは無罪ということになる。
第1審から最高裁まで、主な争点は、この「医学的に致死量に満たない空気を静脈に注射する行為により、殺人罪の実行の着手が認められるか」という点に絞られた。
1審は、被告人らに殺人罪の実行の着手を認め、殺人未遂が成立すると結論。不能犯の主張を退けた。
母娘は控訴したが、控訴審も1審の判断を支持した。その後、麻美は控訴審判決前に拘置所にて自殺死したため、公訴棄却となった。
あつ子は上告。事件は最高裁判所において争われることになった。
主文
本件上告を棄却する。
理由
被告人本人の上告趣意について。
・・・
また、同第二点は、人体に空気を注射し、いわゆる空気栓塞による殺人は絶対に不可能であるという。
しかし、原判決並びにその是認する第一審判決は、本件のように静脈内に注射された空気の量が致死量以下であっても、被注射者の身体的条件その他の事情の如何によつては死の結果発生の危険が絶対にないとはいえないと判示しており、右判断は、原判示挙示の各鑑定書に照らし肯認するに十分である。結局、この点に関する所論原判示は、相当であるというべきである。・・・
(参考判例・最高裁判所判決 昭和37年3月23日)
(了)