正月を二日前に控えたこの日、板場はおせちの仕込みで一日中大忙しだった。
夜半になって一段落ついた紘一は、自室に戻ると、いつもの習慣で包丁を研ぎだした。
砥石を湿らせ、その日使った包丁を研いでいく。
包丁を研いでいると、ふと、先ほどの竜子の言葉が耳朶によみがえった。
一メカケの子。・・・
正月の準備で気が立った竜子に、またしても罵倒されたのだ。そして、母を侮辱されて、自分は一言も返せなかった。言い返すときは、花月を出て行くときだという思いがある。
知らずに頬に涙が流れた。紘一は男泣きに泣いた。
竜子との結婚は失敗だった。いや、自分は竜子ではない、花月の暖簾と結婚したのだ。何と浅はかなことをしたのだろう。
暖簾分けしてもらえないと言って、一体それが何であろう。何処かに小店でも開いて、母様と二人、静かな生活を送ればよかった。いや、息子の成長だけを楽しみに頑張ってくれた母様に報いるためにも、そうすべきだったのだ。
花月の若主人と持ち上げられても、表向きのことにすぎない。妻の目を気にして、実母に会うこともできず、実家の墓参りさえしない男になり下がっている。
大主人にも女将さんにも相談できない。あの人たちには花月の経営だけが大切なのだ。かわいがってもらっていると思っていたが、とんだ勘違いだった。
腕が良い板前だから、後ろ盾もなく遠慮がないから、出戻りの長女を押し付けても文句を言わないに違いないから、だから目を掛けられたのだ。
竜子と別れようと、何度も思った。しかし認めてもらえるわけがない。そんなことを言い出せば、暖簾を傷つけたと責められよう。どれほどの慰謝料を要求されるか分からない。自分は離婚する自由さえ、もはや失くしてしまったのだ・・・。
人の気配にふと振り向くと、引き戸を開けて竜子が立っていた。体格の良い竜子は、紘一を見て仁王立ちの様で声を荒げた。
「あんた、こんなとこに居たんかいさァ。おせちの仕込みがまだやでぇ」
そして、紘一の濡れた顔を見て、嘲るように言った。
「へぇ、泣いてんのか。―早う働かんとクビやでぇ、メカケの子」
聞いた紘一の頭の中で、何かが爆ぜた。
それからの事は、断片的にしか憶えていない。警察でも検察でも何度も尋問されたが、嘘ではなく、ほとんど記憶が戻らない。
憶えている事といえば、竜子の―恐怖のあまり―大きく開けた真っ赤な口、二階への階段を駆け逃げる尻、許しを請うてついた手に屹立している包丁・・・それらが、ちょうど昔のスライド写真のように、カシャカシャと脈絡なく連続する。
紘一が平常に返ったのは、開店時間が間近になっても起き出さない主人夫婦を探しにきた仲居頭に起こされた時だった。
紘一はいつものとおり自室で熟睡していた。その枕元には、場違いに、魚のアラ入れ用のバケツが置かれている。
仲居頭は申し訳なさそうに声をかけた。
「新宅さん(若主人の意)、お休みのとこすんません。もうお時間どすえ」
「ああ、・・・もうそんな時間かいな」
「お気分でも悪おすか?・・・そのバケツ、何どすねん。あてが持っていきまひょか」
仲居頭はバケツを覗いた。中には蝋色の肉片が積み上げられている。
「これ、何の肉どす? ・・・あ、これは・・・ヒエ~!」
バケツの中に詰まっていたのは、竜子の死体の肉片だった。
竜子は身体を左右真半分に切り分けられ、さらに10部ずつに解体されていた。
肉片は綺麗に捌かれ、洗われて、一滴の血や汚物も付着していなかった。
(続く)