「山口さん、ご主人さんが呼んではりますえ」
紘一はある日、大主人の居室に呼ばれた。この部屋は、本店から大主人が出張るときだけ使用される、特別の部屋だ。
その頃になると料亭・花月は、割烹料理では第一級の店と評判を得ていた。大主人の弥作は、三人いる娘の次女に心斎橋店を任せ、自身は骨董三昧、釣り三昧の日を送っている。
包丁一筋に生きてきた弥作の宿願は、京都店の成功によりほぼ達せられたとみえた。長女は奈良の高名な和菓子店に嫁ぎ、勉強好きな末娘はアメリカに留学している。
弥作の唯一の心配は、この京都店を誰に任せるかということであった。次女は生来客商売に向いており、本人も店に出ることを望んだので、特別に心斎橋店を任せている。しかし本来は、包丁を握れる者が店を統括するべきだというのが、包丁人として生きてきた弥作の信念だ。
実は、弥作は山口八重の息子の才覚を早くから見抜いており、むしろ養子に迎えたいと思っていた。その方が修行に身が入るだろうし、他の板前の押さえにもなると考えたのである。
しかし、それには女将の登美子が頑として反対した。
糟糠の妻である登美子は弥作の内心を誰よりも理解していた。だが、3女を得ながら他人の子に看板を譲ることには耐えられなかった。養子に迎えなくとも、誰か腕のいい者に娘をやればいいではないかーそう主張してきかなかった。登美子は女中どもを束ね、大女将として一定の権勢があったから、弥作としても無下にはできかねた。
―誰かと言えば、やはり紘一ということになろう。
問題は、紘一がこの話を受けるかである。弥作が紘一と結婚させようとしているのは、心斎橋の次女でも留学中の三女でもなく、奈良の菓子店から出戻る予定の長女、竜子だったからだ。
もの優しく器量良しの次女や、若く快活な三女ではなく、年は三十路、大柄で男顔、性格もきつくわがまま放題の竜子だといったら、いかに大人しい紘一とて、馬鹿にされたように思いはしないか・・・。
しかし、京都店を磐石にするためには、ここ一番「仲人口」で行かなければなるまい。いったん結婚させてしまえばこっちのもの、離婚するときは料亭・花月の若主人を辞めるときだ。花月に後足で砂を掛けて出て行ける板前は、日本広しと言えど、おりはしない。
弥作は紘一を居室に呼び、小1時間を語りとおした。
弥作の一世一代の芝居は成功した。紘一は尊敬する大主人・弥作から泣き落とされ、竜子との結婚を承諾した。
弥作の弁舌を聞いているうち、花月京都店の若主人として存分に腕を振るえるという板前としての希望と、母・八重の老後を思えば、結婚する相手が誰であろうと―大主人・弥作の娘には違いないのだから―構わないという気持ちになったのだ。
もし断れば、もはや花月にはいられないという思いもあった。
しかし、紘一の結婚は無残だった。
家付き娘の竜子にとって、紘一はただの奉公人であった。食事も寝室もすべて別にした。ことある毎に、一人身の八重を誰それの妾、紘一を妾腹の子と嘲った。竜子は、嫁ぎ先で溜まった鬱憤を、実家である花月に戻って放出したのだ。
「メカケの子のくせに、一人前の顔すんな!」
気性の荒い竜子は何かというと紘一に突っかかり、唾を飛ばして罵倒した。それは周囲に板前がいようと女中がいようとお構いなしであった。
しかし、大主人の娘である竜子に意見できる者は誰もない。板前らも女中も、怖いもののように黙って見ているだけだった。
紘一はひたすら耐えた。だが、徐々に引きこもりがちになり、後には仕入れも若い者に任せるようになった。
板場に出れば、そこには竜子の目が光っているのである。
(続く)