Kは、初めは遠慮がちに、そのうち当然のように、料理店からホテルに車を回すようになった。四郎は、あの夜のKの行為を決して許したわけではないと思っている。しかし、Kとの時間は、次第に四郎の生活になくてはならないものになっていた。
たとえば、夕間暮れの料亭の玄関を濡らす打ち水。躾の行き届いた座敷係の、密やかな衣擦れの音。奥座敷の畳の青。そこでKと飲む酒、口にする珍味の甘さ。静かに更けていく夜。
自分のマンションで独り過ごす日、四郎は幾度も、Kとの優雅な時間に引き戻された。今までは大学の学食で不満もなかったが、もう抵抗なく口にすることはできなかった。
学友が羨むこのマンションさえ、薄っぺらな造りに居たたまれなくなる。自分が馴染んでいた世界の一切が、貧乏臭く感じられてならない。気がつくと、Kからの呼び出しを待って携帯を弄っていた。
アルバイト時間は半分以下になった。Kの相伴をすると、夜は働けないのだ。目的の受講費は、ようやく半分まで貯まった。しかし、正直なところ、公務員試験に取り組む気が残っているのか、自分でも分からなくなっていた。
オーナーも二人の仲に気がついたが、Kは相変わらず店に四郎を伴い、気前よく二人分の金を使うので、文句は言わなかった。
四郎に対するKの態度は、交際が始まったころと何も変わらなかった。Kは、飲食代、タクシー代、ホテル代等全てを負担し、出入りする場所に相応しい衣服や靴まで買って四郎に与えた。それでいて、横柄になることも恩に着せることもないのだ。
しかし、最近になって、四郎はKにどうにもついていけなくなっていた。それは、Kが行為時に見せる被虐的な性向が、次第に激しくなってきたことである。
キスマークをつけたり、軽く噛んだりすることまでは、異性との行為で四郎は経験していた。しかし、行為の最中に首を絞めてほしいといわれたときは、思わず断った。
― そんなこと、嫌だよ。
しかし、Kは聞かなかった。四郎に応じる気がないと分かると、その両手を自分の頚部に当てて押し付ける。取り憑かれたような表情は、もはや優雅な趣味人のものではなかった。四郎は振りほどこうとしたが、30才上のKに全く敵わなかった。間もなく、四郎がKの首を絞めるという行為は、二人にとって当たり前になってしまった。
― 本人が感じるって言うんだから、仕方がないよな。
四郎は自分に言い聞かせた。今のところ何もかもKの世話になっているのだ。加虐的性向は四郎にないものだったが、Kの嗜好に合わせなければ悪いような気もした。
だが、それも一昨日までのことだ。
― こんなことできない。絶対に無理だ。金をもらって人を殺すなんて・・・
いつしか雨は激しくなり、石畳の坂を濡らしている。石に光る雨は、どす黒い血の色にさえ見えた。
「頼むよ。これでやってくれ!」
拒む四郎の指を一本一本開かせ、ソムリエナイフを握らせる。それを自分の下腹部に突き刺そうとするのだ
― 止めろよ。そんなことしたら死んじゃうだろ。
「気持ちいいんだ。こうしたら最高に気持ちいいんだ。グサーっとやってくれ!」
― 正気じゃないよ。下腹刺すって、何なんだよ。
「これがいいんだ、刺すのがいいんだ。腹の中に入っているもの、全部出して欲しいんだ」
― どうして死ななきゃなんないんだよ。そんなに金持ちで。何の不満もないだろ?
「俺の頼みを聞いてくれないのか!...500万出す。500万ならやってくれるだろ?な?」
Kの必死の形相が四郎を圧倒した。
会えば、またきっと求められる。呼び出されても行くまいと、何度も思った。だが、ホテルで待っているKを無視することはできなかった。
― でも、今日こそきっぱり断ろう。終わりにするんだ。
濡れた顔を上げると、坂上のホテルはすぐそこにあった。