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父と娘の物語 ― ある親殺し 第四回

 そのようなある日、高井さんという人が来られました。高井さんは内職の仕事を下さる和装会社の配達係で、月に一度、紙縒りの材料を届けてくださるのです。元は腕のよい仕立職人だったということですが、戦争で指を失くして針を持てなくなり、配達係になったと伺っています。父と同じくらいのお年でした。

 私はひどい身なりをしておりましたから、他人様と顔を合わせるのが恥ずかしく、いつも材料は部屋の前に置いて帰っていただくようにしていました。でも、その日はたまたま、3つになる子どもに外の空気を吸わせようとドアを開けたところを、鉢合わせしてしまいました。
 高井さんは呆れたように、私と子どもの浅ましいまでの様子を見ておられました。部屋の中では、他の子がヒキツケたように泣いています。私は恥ずかしさに身が縮むようでした。  高井さんはしばらく黙っておられましたが、やがて、「中村さん、悪いことは言いません。お父さんと別れなさい。そして、ここをお出なさい。辛いかもしれないが、ここにいるよりは、何ぼ良いことか。」とおっしゃいました。
 私はぽろぽろ涙がこぼれて、どうすることもできませんでした。思いがけず、「はい、そうします。そうします。」と、口にしたことのなかった言葉が、堰を切ったようにあふれてきました。今まで誰に言われても、「父を見捨てることはできません。」と答えてきたのです。でも、もう限界でした。それが高井さんに言われてよく分かったのです。
 その日、父は久しぶりの仕事にありつき、現場に出ていました。私はこれまでなかった心持ちで父の帰りを待ちました。

 父のために作った粗末な食事の前に、私は改まって座りました。そして、一気に、「お父さん、申し訳ありませんが、ここを出て行きます。お父さんと別居したいと思います。」と言いました。不思議に気持ちが落ち着いて、父と差し向かいになったときいつも感じる畏怖れは消えていました。
 父は、「何じゃと。」とつぶやいて、私をじっと見ました。その目つきは、何と言ったらよいでしょう、非情とも酷薄ともつかないもので、今までの激情や好色とはまったく違っていました。それを見て私は、父もまた、今までの限界を超えようとしていることを悟りました。

 「すみません。私はここを出て、働きます。子どもたちと暮らします。」そう言い終わらないうちに、頬に張り手が飛んできました。私は弾き飛ばされて、台所との境のガラス戸にしたたか頭を打ちつけました。ガラスが音を立てて割れ、額から血が流れました。子どもたちが驚いて泣き叫びました。

 「出ていけるっちゅうなら、出て行ってみんか!」父は叫ぶと、部屋の隅に重なるように寝ていた子どもたちを足蹴にし始めました。「これあ、みんな俺の子じゃ!お前にはやらん!お前にはやらん!」私は夢中で父の脚にしがみつき、振り回されながら止めようとしました。「お父さんに育てられるわけがないでしょう?止めてください、もう止めてください!」そのとき、蹴りがわき腹に入り、私は気を失ってしまいました。

 それからの10日間、私と子どもたちは、食べ物も与えられない監禁状態に置かれました。父は靴脱ぎの半畳の三和土に陣取り、焼酎の一升瓶を抱えて動きません。外出するときは外から南京錠を掛け、私たちが逃げられないようにしました。
 アパートの管理人さんや近所の人が、私たちが監禁されていることに気がついていたかどうかは分かりません。でも、父は危険人物として誰もが避けていましたから、何かおかしいと思ったところで、なすすべもなかったでしょう。

 私と子どもたちは、父の眼を盗んで水道水を飲み、生命をつなぎました。育ち盛りの子どもたちはさぞ空腹であったろうに、恐怖のせいか、むずかることもないのです。ただ黙って、破れ畳に転がっていました。ふと、もう息絶えているのではないかと、あわてて揺り起こしたこともあります。
 父は、私たちの悲惨な様子を見ても、平然としていました。まるで、虫が弱って死んでいくのを見るような目つきなのです。この人は、私と子どもたちが枕を並べて餓え死にしたところで、何の痛みも感じないにちがいない。そう思ったとき、私は生まれてはじめて、父に殺意を抱きました。

 取調べの中で、警察官の方や検事さんに、「いつ殺そうと思ったのか」と何度も聞かれました。犯行が計画的なものか激情に駆られたものにすぎないかで、情状というものに差がつくのだそうですね。そうだとしても、私の犯行は、やはり計画的だったというしかありません。カッとなって殺したわけではありません。父が死ななければ、私と子どもが死んでいたのです。そう考えて、私は父を殺しました。
 方法は、父が酔って寝ているとき、取っておいたガラスの破片で首を刺しました。破片は、台所の境のガラス戸のもので、いつか自殺を考えて、隠しておいたのです。ふと、それを使おうと思いました。10日間水だけしか飲んでいない私の体力は、もう極限状態にありました。老いてはいても身体の大きな父を確実に殺すには、寝ているところを狙うしかない―と思いました。
 父の首を刺したとき、噴水のように血が吹き上がりました。それを見て、動脈が切れたことが分かりました

 すぐに自首することは考えつきもしませんでした。しばらくの間、動かなくなった父の傍らにしゃがみこんでいました。ガラス片は私の手のひらにも食い込み、人差し指の骨で止まっているようでした。でも、痛みは感じませんでした。

 夢の中の花火を見ているように、父が息絶えるまで、吹き上がる真っ赤な血しぶきを見ていました。

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