第2回
部屋に入り、毛羽立った古いソファに腰を下ろした。
一畳半ほどの部屋にあるのは、テレビ、DVD・ビデオの再生機の他に、このソファだけ。窓はない。安物の壁紙には、饐えたような臭いが染み付いている。
タバコを吸わない私は、この臭いにいつも不愉快にさせられる。吐き気が込み上げるときさえある・・・しかし、ここは東京の個室ビデオ店の一室。大都会の繁華街の中の吹きだまりに、「健康志向」は無縁だ。
だが、屋根のある空間で一人になりたくて、2、3ヶ月に一度、ここに泊まる。テレビやビデオが見られて2000円で済むからだ。ネットカフェでは、5時間のナイトパックでも2000円から3000円ほどかかってしまう。インターネットを頼りに就職情報を集めていた時期にはちょくちょく利用したものだが、住所のない人間には定職が見つからないと思い知った今は、全く利用しなくなってしまった。
噂では、簡易シャワーが設置されている店もあるらしい。公園で暮らす仲間に聞いたことがある。シャワーを浴びてビデオを見れば、昔に帰ったようで、心底、疲れが取れるという。入浴料450円の銭湯へ週に一度行くのがやっとの私には有難い話だ。一度利用してみたいと思う・・・しかし、そんなところは人気が高く、満室ということがあるので、敬遠している。フラれたあげくに空き部屋のある店を探しまわる体力が惜しいのだ。
最近、体力が落ちたことを痛感する。帰る部屋があり、飯を食う食卓がある― そんな当たり前のことが、どれほど休息を与えてくれることだろう。帰る家を失い、公園に寝てみてはじめて分かったことである。
公園生活も悪くない・・・付き合い次第で仲間も増えるし、ボランティアの炊き出しもある。はじめはそう思おうとした。しかし、だんだん辛くなってきた。肉体より先に、気持ちの方が弱ってきたのかもしれない。
テレビをつけて、ペットボトルの水を飲んだ。この水は、近くの公園の水飲み場で補給したのだ。4本のペットボトルに水を詰める私を、子供連れの主婦が不審げに眺めていた。そんな視線が辛かった時期もあるが、もう何とも思わなくなってしまった。
水はぬるくて不味いが、何しろタダだから、文句は言えない。冷えたスポーツドリンクなんかが無性に飲みたいことがある― しかし、自販機などとんだ贅沢だ。
テレビの画面には、赤と白のウエアを着た青年達が映っている。カメラがその中の一人をアップでとらえた。小生意気そうなガキだ。胸には丸い金属が下がっている。
「U選手の好物は、何とチョコレートだそうです」
マイクを持った頭の悪そうな女が、興奮気味にしゃべっている。
「減量とかは苦労しなかったのでしょうか?・・・羨ましいですよねぇ」
チョコレートか。チョコレートは大好きだ。だが、腹がふくれないから買おうと思わない。
「ではここで、U選手のふるさと、N県I市の様子をお伝えします。I市は初めてのメダリスト誕生に沸き立っています・・・」
私の故郷もN県、S市である。N県は観光で栄えているが、S市にはほとんど何も見るところがない。I市はどんな町だろう。同県なのに、行ったことがない。I市だけではない、小さいときから、自分の町を出た記憶がない。高校を卒業して東京に出るまで、遠足と修学旅行のほか、何処に行ったであろうか。親父の稼ぎでは家族5人食うのがやっとだったから、小遣いさえもらった記憶がない。貧しい少年時代であった。
故郷にはずいぶん長く帰っていない―最後に帰ったのは親父が死んだときだった。そのときのことは今でも時々思い出す。暑い夏の終わりだった。
坂の多い町を、駅から家まで、埃と汗にまみれて私は歩いた。久しぶりの故郷は少しも変わっていなかった。軒の低いわびしい家並みに、潰れかけの小商店が点在している。ちょうど夕暮れ時で、一日の仕事を終えた男達が、三々五々、疲れた足取りで歩いていた。
町に産業はない。ただ、港には造船所があり、働ける者は皆、そこに雇われているのだ。肉体労働で成り立っている町であった。
本当は帰郷したくなかった。東京へ出て十数年、やっとの思いで起こした会社が傾きかかっており、田舎へ帰る金も時間も惜しかったのだ。しかし、ふと、田舎の家を担保に銀行から金を引き出すことを思いついた。ボロ家だが、少しくらいは貸すのではないかと思ったのだ。
玄関の板引戸を開けると、上がり口の部屋にいた親戚が一斉に振り向いた。その中の年老いた男が声を上げた。私の叔父、父の弟である。
「孝之か?」
私は黙って靴を脱ぎ、擦り切れた畳を踏んで棺の枕元に寄った。
親父は小さくなって綿の中に寝かされていた。酔って暴れては、母と私を散々打ち据えた面影はどこにもない。干からびた顔は土色をしていた。
叔父が私の背中越しにしわがれ声を上げた。
「お前はお前は、・・・どの面下げて帰ってきよったんじゃ。長男のくせしくさって・・・、一体、どれほど迷惑みたと思うとるんじゃ」
「お父さん」
言い募る叔父の肩に、叔母が手を掛けた。叔母も70半ばになるはずであった。
「血圧にさわるっち」
叔父は、父とともに、60過ぎまで造船所で働いた。二人ともしがない現場作業員であった。
父の方は、勤めの最後は腰が利かなくなり、主任のお情けで用務員のようなことをさせてもらっていた。ある日卒中で倒れ、そのまま寝たきりになった。
以来、親父の食事と下の世話は叔母がしていたのだ。当時は介護保険などなかったし、年寄りが倒れれば、その世話は身内の女がするものと相場が決まっていた。叔母か、叔母ができなければ代わりの女が世話をするのである。そのことに、私は何の感謝も痛痒も感じなかった。
親父が倒れたとき、親父にわずかな情でも残っていたら、私は東京の生活に見切りをつけて田舎に帰ったかもしれない。東京の暮らしは厳しかった。希望を抱いて上京したが、都会の生活は全く想像と違っていた。
その当時、私は、江東区の場末の、運動用品を作る町工場で働いていた。仕事は運動靴のゴム底の型取りをするのである。上野にあった就職の斡旋屋でこの仕事を見つけたのだ。だが、勤めはじめて5年が過ぎても、仕事も工賃も同じであった。工場裏にある古ぼけた工員寮に住み込み、朝7時から夜8時まで、需要の多い春や運動会のシーズンは深夜過ぎまで、作業台に座ったきり、残業手当もなくゴム底を作るのだ。
これでは親父と同じだった。親父は故郷で、私は東京でという違いがあるにすぎない。ゴム底の作業員は、現場のガス煙を吸って気管支や肺を痛める者が多かった。仕事を休むようになると、スズメの涙ほどの退職金を渡されて解雇された。主任の前で泣いて土下座した者もいた。使い捨ての作業員で終わる悲惨さが身に沁みた。考えてみれば、何の技術も学歴もない私が大切にされるはずがなかったのだ。
私は安い工賃の中からなけなしの金をはたき、製図の技術を教える夜学に通うようになっていた。
親父が倒れたという電報を見ても、私は帰らなかった。金を送れという手紙が来ても、1円も送らなかった。親父は、何の教養も働きもない、クズのような男である。その親父を、同じく何の教養も働きもない、クズのような叔父夫婦が世話をしている。
私はあんな風に人生を終わりたくはない。あいつらは一生、あんな親父の世話でもしていればいいのだ。
(続く)
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