第5回 病室にて
夫の病室は、2階の3人部屋であった。
大部屋に移れば差額ベッド代が要らない、と思うこともある。だが、大部屋ではベッドとベッドの間隔が狭いうえ、仕切りは乳白色の薄いカーテンがあるだけだ。これでは、プライバシーは無いに等しかった。また、たとえ老人といえども、男性の注視の中で夫に食事をさせ、下着を脱がせて背中を拭くのは苦痛だった。せめて少しでも快適な環境に置いてあげたいという思いで、3人部屋に入っている。
看護ステーションに声をかけて病室に入った。
夫は無言で横たわっていた。起きているのかどうかも分からない。
3ヶ月前までは、ロレツが回らないながらもあつ子に話しかけ、喜怒哀楽の表情も見せていた。その日の出来事、病院食のまずさ、看護士に対する感謝・・・しかし徐々に無表情になり、あつ子を見ても表情を変えなくなった。そのうち目を閉じていることが多くなった。同時に咀嚼能力も衰えはじめた。
固形食から流動食に切り替えられる日が来た。子供用のような、把手つきのカップに入れられた薄茶色のそれを見て、あつ子は思わず涙を流した。この1杯が、食べるのが大好きだった夫の命をつないでいる。
ベッドの脇を片付けるうち、廊下に昼食を配膳する音が聞こえ出した。看護士がドアから顔を出し、小さなカップを置いていく。カップは夫の分だけである。他の同室者は、チューブで栄養剤を直接送り込む方法が採られているため、食事を取る必要がないのだ。
この方法では、内臓が機能する限りは生き続ける。患者は時折、「アーアー」という声を上げるが、その意味も分からない。時刻時刻に看護士が来て、異常がないのを確認する。そして出て行く。家族の姿も一度も見たことがない。
あつ子はカップから一匙をすくうと、夫の口元に近づけた。半開きの口に、注意深く匙の先をつける。
「いい? 入れるわね・・」
答えは返ってこない。それでも、聞かずにいられない。あつ子は匙を傾けたーしかし、唇の横から褐色の液体が垂れ流れ、まばらに伸びた無精ひげについた。
「ダメよ、こぼしちゃ。ね、がんばって食べてね」
美味しくないだろうけど、と言いかけて言葉を飲み込んだ・・・いいえ、こんなものが美味しいはずがあろうか。
ふと視線を感じて振り向くと、一人の男性患者が、パジャマ姿でドア口から覗いていた。この老人はトイレでも見たことがある。毎日来るあつ子に興味を持っているらしいのだ。ドアに寄りかかって、皺だらけの手で緩慢に股間を弄っていた。
やり場の無い怒りがこみ上げた。大声で追い払おうとしたとき、男の後ろの人影に気がついた。
(続く)
«「その方法で殺せますか?― 不能犯の成否」 第四回 | 目次 | 「その方法で殺せますか?― 不能犯の成否」 第六回 »