第7回 ある提案
「よく考えといてよ。明日また来るから」
そういい捨て、麻美は談話室を出て行った。残されたあつ子は金縛りにあったように、席を立てなかった。
どのくらいそうしていただろうか。
足を縺れさせ、病室への階段を、一歩一歩下りていった。娘の声が頭に木霊した。
「いつまで生かしとくつもり?」
―あれが私の娘なのだろうか。
胸が苦しくなって、階段の手すりに寄りかかった。額に冷や汗が吹き出てきた。
「野木地さん、どうしたんですか?」
通りすがりの看護士が声をかけてきた。
あつ子は平静に「はい」と答えたつもりだった― だが、自分の声とは思えないほどに上ずっていた。
「お顔が真っ青。どうされました?」
「いいえ、・・・何ともありません。すみません」
看護士は、長年のあいだ通院している中年女性の顔を見返した。小ぎれいに身じまいしているが、いつも疲れた様子をしている。けれど、これほど顔色が悪かったことはなかった。
「担当医がおりますよ。ちょっと診させていただきましょうね?」
「ほ、本当に大丈夫ですから」
あつ子は逃げるように階段を駆け下りた。
夫のベッドは病室の入り口、ドアから一番近い位置にある。容態の変化に少しでも早く気がついてもらえるように、特に希望してベッドを移してもらったのだ。
夫の枕元には、流動食のコップがそのままになっていた。夫は何の表情もみせず、空ろな眼差しを通りに面したガラス窓に投げているばかりだ。あつ子は思わず、夫の手を握りしめた。
―この人を殺す。私と娘が、この人を殺す・・・。
「どうしてできないの?」
麻美の声が、もう一度耳元で木霊した
(続く)
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