「ああ。― 紘一の具合はどうだ」
紘一は伸太郎と八重の息子で、4年前平壌で生まれた。この寒さには慣れているはずだが、生まれつき虚弱な体質で、よく体調を崩した。
「昨日よりは好いようです。お雑煮もいただきました」
「そうか」
伸太郎は鞄を八重に渡し、靴を脱いだ。全身を綿のような疲労が覆っている。新しい年への抱負と期待に満ちるべき正月行事が、今日ほどに空疎に思えたことはない。
八重にもそれは伝わっている。
「お夕食は」
「いらん」
自分の言葉があまりに素っ気無く思えて、伸太郎はあわてて言葉を添えた。
「・・・紘一の風邪がうつったかもしれんな」
「明日もお忙しいのでしょう。―今日の行事は、いかがでございましたか」
妻に問われて、伸太郎は胸の痞えを隠せなくなった。今日の参賀行事に、金色の肩章を光らせ、最前列に並んでいた陸軍幹部らの姿が思い出されたのだ。
「陸軍の高官どもは、一体いつまで、下手な踊りを踊るつもりだ。平民たちがどんな気持ちでいると思うのか」
「・・・」
「いや、こんなことを言っては首が飛ぶな。何しろ首切りが大好きらしいから」
「あなた、そんなことをおっしゃっては」
この頃になると、日本陸軍兵士の暴虐は、もはや世間に隠しようもなくなっていた。兵士は朝鮮民族の農民や捕虜を引き出し、気の向くまま軍刀の試し切りにしているという噂であった。
「特に婦女子は大変な災難を受けておるらしい。兵士の中には、同胞女子と分かっていながら手ごめにしてな、朝鮮人と間違えたなぞと居直る不届き者もあるそうな。
―お前も気を付けよ」
「・・・はい」
夫婦は日本軍の暴虐に虐げられる朝鮮民族の不運を思い、暗い気持ちになった。日本の旗色が悪い昨今、一朝事あれば、それはそのまま在留邦人への仕打ちに返るに違いなかった。
ふと人の気配を感じ、夫婦は次の間を見た。―少しばかり開かれた襖の陰に、母に似た色白の少年が立っている。
「紘一か」
「お父様、お帰りなさい」
八重は急いで母親の表情を取り作った。
「紘一、そんな薄着で起きてはいけません。さあさ、早くお居間に戻りましょうね」
この屋敷にはもと朝鮮政府高官の家族が住んでいたのだが、日本軍によって接収され、総督府関係者の住居に供されたのである。
長期間にわたる日本の統治により、この豪華な屋敷も、部屋によっては日朝文化が融合した造りになっていた。ただ、居間と客間には伝統的なオンドル設備が備えられ、厳寒期でも春のように暖かかった。
紘一は母親に手を引かれ、暖かな居間に戻った。
しかし、偶然垣間見た両親の暗い顔は、長く少年の記憶に留まった。
(続く)