少年は忍び込む冷気で目を覚ました。暗い天井から下がる電球が薄白い。鈍い光は、そのまま戸外の寒さを映しているようだ。
家中は静かだった。女中たちも起き出さない。まだ夜明け前なのである。
まぶたが重い。昨夜も遅くまで本を読んでいた。本を読んでいるときが、一番楽しい。ついつい夜更かしし、寝坊しては、母にたしなめられてしまう。
紘一は母が好きだった。美しい母が自慢だった。周囲の人々の言葉でも、母が抜きん出て美しいことは確かなのだ。父もそう思っているに違いない。母の美貌を父が誇らしく思っていることは、自然に感じ取れる。妻を伴って外出する夫はほとんどいないようなのに、父はいつも母を連れて出る。
母は手まめに世話を焼いてくれる。隣近所の母たちのように、子どもを女中や子守に任せることは決してない。
父は物静かな人だ。母のように、身近にいることはほとんどない。話すこともまれだしかし、その部屋からは、いつも花鋏の音が聞こえる。
紘一は襖の外に座り、その音に耳を澄ました。父が華道に精進していることは、母や使用人たちの言葉でも分かる。間断なく静かに、ときには情熱的なほど強く響くその音は、内向的で敏感な少年にとって、そのまま父の言葉であった。
― 紘一は、母が手ずから作ってくれた首巻を引き寄せ、再び眠りにつこうとした。
しかし、密やかな声が耳について眠れない。その声は隣の、父母の寝室からである。こんなことは初めてだ。
こんな時刻に、一体何を話しているのだろうか。
紘一は内向的で早熟だった。生来の読書好きが、その傾向を強くしたといえる。就学前から、日がな一日、本を読んでいた。
友人関係は自然に狭くなった。近所の男の子は、軍隊ごっこに興じて飽きることがない。尊敬する人は天皇陛下、次いで陸軍大将という時代である。しかし紘一は、そのような遊びには一切興味を示さなかった。
父は喜んだ。ひそかな反戦主義者であった伸太郎にとって、軍隊ごっこほど粗野な遊びはなかったのだ。
紘一は父の書斎にある蔵書を自由に読むことを許された。紘一にとっては宝の山であった。紘一は父の書斎にこもりきりとなった。そして、同じ年頃の少年が知らない知識を得ていった。
自分が生を受けたのは、近所の子らが言うように「コウノトリが運んできた」のではなく、父母の男女の営みによるのだと知っている。
しかし、隣室から聞こえる声は、艶かしいものではない。
紘一はふと、正月に見た父と母の暗い顔を思い出した。
(続く)