一ヵ月後、八重と紘一は帰国した。
あの晩、八重は伸太郎から、紘一を連れて先に帰国するよう切り出された。
八重は即座に反対した。何よりも、伸太郎と離れるのが嫌だったのだ。
夫は、大事無い、戦争に決着がついたらすぐに帰国する、という。しかし、戦争が夫の予想通りの結末になるとすれば、総督府関係の高官に自由が保障されるとは思えない。拘束され、責任者は立場に応じて処分を受けることになろう。
それならば、何よりもまず、一粒種である紘一の安全を図ることが、今できる最善の策ではないか。混乱の最中には何が起きるか分かりはしない。一刻も早く、内地に戻った方がよい。・・・
夫婦は一晩語り明かし、八重はついに決心した。
母子は伸太郎の指示どおり、山口家の法事出席を理由に帰国した。
伸太郎の故郷の広島安芸では、八重が伸太郎の手紙を持参したのと、山口本家の総領息子、紘一を連れての帰還であったから、親戚どもは仕方なく母子を迎え入れた。
半年も経たずして、伸太郎の言ったとおり、戦争は日本の敗戦で終わった。そして、後から帰国するはずの伸太郎は、それきり消息を絶った。
周囲は八重と紘一の扱いに困った。満鉄に勤務していた伸太郎の弟と息子が帰還すると、はっきり母子の居場所はなくなった。
母子は仕方なく広島を離れ、大阪に出た。
大阪を選んだのには、さしたる理由があったわけではない。関西経済の中心都市である大阪なら、身寄りがなくとも何か生きる術があろうと思われたのだ。
広島から大阪への旅路は、それ自体が一大苦労であった。八重と紘一は、寿司詰めの列車から何度も振り落とされかけた。八重は息子とはぐれないよう、そのベルト通しにたすき紐を結わえたが、その紐さえ千切れそうになるのであった。
綿のように疲れて降り立った大阪は、完膚なきまでに焼かれていた。活気のあった駅周辺は、闇市とあいまい宿の密集地となって、別の町のようである。
戦争を生き抜いた人々は、さらに生き延びるために、何をしても生きていこうとしていた。皆、日々の飯と宿をどのように得るか、それしか考えられなかった。
華道師範だった八重も、今は職と宿を求めて、闇市と一膳飯屋の密集する路地を歩きまわった。
間もなく八重は、一膳飯屋の女中の仕事を得た。夫に生きて会える望みは、もはやない。一人で紘一を育て上げるしかないのだ。八重は身を粉にして働いた。
身寄りのない母子がようやく一息ついたのは、それから3年ほどたった頃である。八重が勤めた飯屋は、もと心斎橋に一軒を構えていたのが、焼かれてしまったのである。
人々の生活が落ち着いてくると、店にも客が戻ってきた。間もなく、店は心斎橋に帰ることができた。
八重は陰日向ない働き振りと美貌を買われ、住み込みの仲居として、新しい心斎橋店に3畳間一室をあてがわれた。
その頃としては望外の条件であった。
(続く)