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アスペルガー障害 第五回

 それから10年がたった。
  八重が働く料亭・花月は、心斎橋に戻って勢いを得、評判高い人気店に成長した。
  経済が本格的に復興しはじめたことも幸いした。起業や相場で大きく儲ける者達が現れて、市井の人々の生活にも少しばかりの余裕ができたのである。
  八重は主人の弥作に気に入られ、仲居頭に昇格していた。
  高級料亭といえども酒食供応の場にかわりはなく、美貌の八重に誘惑は多かった。だが八重には紘一の成長だけを楽しみに、ひたすら働いた。
  生活環境が変わっても、紘一の読書好きは相変わらずであった。友達と遊ぶこともない。仕事を終えて八重が部屋に戻ってくるまで、一人で本を読んでいた。
  内向的な性格も変わらない。変わったのは面貌で、母似で優しかった面立ちは、いつしか伸太郎に似て、意志の強さを現すようになっていた。

 15歳になったとき、紘一は、進学するつもりがないことを母に告げた。

 「お母様、僕は働くことにします」

 八重は唇をかんで俯いた。紘一には、母子の置かれている状況がどのようなものか、分かっているようだ。仲居頭に昇格し、多少の余裕はできたものの、今の収入では高校大学と進学させるのは難しい。

 「働くって、何をしたいの?」
  「板前になろうかと思うんです」

 紘一が料理に興味を持っているとは意外だった。紘一が説明するには、料亭・花月では、京都に新店を出す計画を立てているという。

 「そんなこと、誰から聞いたの?」
  「―女将さんに・・・」

 主人の弥作夫妻には3女があったが、男の子がいなかった。そのため、主人夫婦は紘一を何かと可愛がってくれていたのだ。

 「よかったら、新店でやってみないかって。一度、お母さんと相談してみなさいって・・・」
  「そう」

 女将がそこまで言うとすれば、それは主人である弥作の意向でもあろう。ただ、主人夫婦は、できれば息子を進学させたいという八重の気持ちを知っていたために、八重に直接言うのを憚った、とみえた。

 「本当に板前になりたいの?」

 八重は言葉を継いだ。

 「あなたは何でもできる子だから、修行を積めばいい板前になれるでしょう。母様はね、それは心配していません。ただ、・・・」

 心配なのは、紘一の内向的な性格であった。
  板場は上下関係の厳しい職場である。それに癖のある者もいる。大酒呑み、女好き、博打狂い―。
  板場で生きていこうとすれば、そんな連中とも先輩同輩の付き合いをしなければならない。
  酒に付き合うなど当たり前、女郎買いのお供をしたり、馬券や船券を買いに行かされたり―育ちの良い新入りが悪道に染まっていくのを、八重は何度も見聞きしている。
  華道の名門家に生まれ、母子家庭に育った内向的なこの子が、男ばかりの荒々しい世界で生きていけるのだろうか。
  しかし、― 大主人の意向だとすれば、これは願ってもないチャンスなのかもしれない。
  二流の店ではない、成長著しい高級料亭で修行ができるのだ。大主人も目をかけてくれいる。腕を上げれば、独立も夢ではない。
  大学を出たとて、たいていの者が一介の役人やサラリーマンで終わることを思えば、繊細な感覚と、何事も忽せにしないきっちりした性格を持つ紘一には、果報な話とも思える。

 「わかりました。それではね、母様が一度、ご主人とお話してみます」
  「母様、よろしくお願いします」

 紘一は静かに頭を下げた。

(続く)

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