紘一は料亭・花月京都店の板前見習いになった。
板前見習いの勤労条件は過酷である。給金は小遣い程度。勤務時間は、言わば24時間。早朝の「かど掃き」(店の表を掃除すること)から、夜風呂を落とす(湯を流して掃除すること)まで、こってりと使いまわされる。店に「居させてもらっている」ので、それが当たり前と考えられている。
それにはこういう事情がある。
板前見習いの多くは、地方の高級料理屋の子弟である。店に実力と箔をつけるため、経営者が跡取りを預けるからである。割烹料理店だけではなく、蕎麦屋、鰻屋の子弟もいる。
高級料亭のお坊ちゃんとして大事に育てられた者も、修行に入ればただの見習いである。店では「修行をさせてやる」という気でいるから、容赦なくこき使う。辞めようとする者を誰も止めようとはしない。代わりはいくらでもいるのだ。
実家で甘やかされてきたお坊ちゃんにはきつい洗礼だ。しかし、この日々を耐え抜けば、都会の一流料亭で腕を磨いた板前として、お得意である素封家や企業人に高い評価が得られる。
一方、根っから料理が好きで、身ひとつで志願してくる者もいる。彼らの目標はただ一つ、独立して自分の店を持つことだ。
そこで、実力のついた板前には惜しげなく暖簾分けしてやることで、逆にやる気のある新人を集めようとする店もある。「分け・・」との屋号を与えたり、店名の一字を使うことを許して、将来的に独立できる、という希望を与える。
しかし花月は、どんなに功労のあった者にも暖簾分けをしようとしなかった。主人の下で30年花板を務めた者でさえ、独立にあたって「花・月」の字を使うことは許されなかった。そういうわけで、花月は独立志向の者に敬遠され、将来は親の店を継ぐ予定の、地方高級料理店の子弟が集まることになった。
花月の板場で、紘一は一風変わった存在だった。実母は心斎橋店の仲居で、何の後ろ盾もないのに、大主人が至極気に入っているというのだ。口の悪い者は、大主人と八重の関係を取り沙汰したりした。しかし、女将の登美子も紘一を大切にしたので、他の者も紘一を認めるしかなくなった。
紘一は次第に頭角を現した。彼には他の板前にないものがあった。それは、幼少時から華道に親しみ、芸術性の高い陶磁器を鑑賞することで身についた、優れた教養である。
板前の仕事とは一見無関係にみえるが、そうではない。季節の素材の色や香りを吟味するにも、器を選別し料理を盛り付けるにも、それらは無言の力となる。
また、板前も座敷に呼ばれて挨拶したり料理の説明をしたりすることがあるが、その礼儀正しさ、立ち居振る舞いの上品さは、口喧しいお得意方が舌を巻くほどであった。これは、八重の折り目正しい躾のおかげだった。
心斎橋店の八重は、京都店での紘一の評判を嬉しく聞いた。人付き合いが得意な子ではなし、生来の几帳面さ、真面目さが仇になることもあろうと心配していたが―どうやら杞憂に終わったらしい。
八重は退職を決心した。自分が仲居でいることは、先ざき息子の障りとなると考えたのだ。
大主人も女将も引き止めたが、八重の気持ちは変わらなかった。いつしか八重も60歳近くなって、酒食の場に身を置くのが億劫になってもいた。
八重はひとり、故郷である須磨に移った。
(続く)