私たちはその民宿に滞在し、真帆の消息を待つことにした。仕事は休まざるを得なかった。妻は憔悴していたが、留まって探すという。
昼は道の駅Yの周辺を探し、夜は近隣の商店街やホテル、民宿などを回って情報を集めた。
それから四、五日のうちに、迷子の情報は何件かあった。しかし、いずれも身元が分かって保護者に返されていた。
他人事ながら良かったという安堵と、どうして真帆は出てこないのだ、という苛立ち。いや、きっと出てくるに違いないという、祈りにも似た気持ち。それらが走馬灯のように胸を去来し、心の休まる時がない。
一週間目、妻が倒れた。食べた物を吐き、夜は眠れない。考えた末、隆と一緒に家に帰すことにした。二人とも帰りたがらないのではないかと心配したが、何も言わず頷くだけだ。二人ともすでに限界が来ていたのだ。
十日目、警察は事件性があると断定し、同時に真帆に関する情報を公開する決定がされた。派出所などに貼られるビラが作成され、地元の新聞にも報道された。私も取材を受けた。
すると、近隣市町村から様々な情報が寄せられてきた。赤い上着の女の子を見たとか、真帆が履いていたものと同じブランドの靴が落ちていた、とかである。
その一つ一つに私たちは一喜一憂し、翻弄された。今度こそと、藁にもすがる思いで確かめに行っては、失望して帰る。その辛さ、切なさは、経験した者でなくては分かるまい。
どこで調べたのか、警察ではなく私の泊まる宿に連絡されることもある。中には、「会ってくれれば詳しいことを話す」というのもあった。
事件として公開捜査する以上、情報提供者に個人的に対応することは止められていたので、その旨説明すると、「貴重な情報なのに、後悔しても知らんぞ」と言う。やむなく行ってみたところ、歯の欠けた初老の男が紙袋を下げて立っていた。
「中に証拠物が入っている。一万円で買わないか?」と言う。怒りに身体が震えたが、一方で、―ひょっとすると真帆の手がかりになるのではないか?―と思ってしまう自分がいるのだ。
しかし、役に立たない情報でも、あるうちはよかった。
日がたつにつれ、情報が少なくなってきた。これが世間でいう「事件の風化」というものであろうか。私は情けなさと惨めさで押しつぶされそうだった。
1ヵ月後、私は自宅に帰った。これ以上仕事を休むことはできない。結局、手がかりになる情報はなかった。
帰宅することを告げるため警察に立ち寄ったが、捜査本部に当初の緊張感はなくなっていた。
「何かあったら連絡しますから」と留守居の警官は言った。
何かあったら? それはどういう意味なのだ ―真帆は死んだと思われている。おそらくは殺されたと・・・。
いや、娘は生きている。そして私が助け出すのを待っている。どうして死んだと分かるのだ。そんな断定をする権利が誰にあるというのだ。
―何があっても娘を探し続けよう。
私は覚悟を新たにして、神戸に帰った。
(続く)